ドクトペッパズ「ヒュブリス」

 

  メアリー・シェリーの有名な「フランケンシュタイン」をもとにした作品。死体をつなぎ合わせることで怪物を創造するという発想をモチーフに舞台化しているようだ。

 男(古賀彰吾)が若者の「死体」(島田健司)の脚を持って引きずり、床に広がっている布をその上にかける。布の下には既に2体の「死体」がおり、若者の「死体」と合わせて3体でうごめき始める。

 布の穴から頭を出し、お互いに顔を合わせたり、きょろきょろ周囲を見回したり。やがて若者と男の「死体」(下村界)の2体が布から抜け出して、パフォーマンスをする。赤いひもでお互いに引っ張り合ったり、床に転がしたり、暴力の匂いがするものも。もう1人は女性の「死体」(大山晴子)で、ぴょんぴょん飛び跳ねたりする。この間、3人とも「死体」という設定なので、白塗りで無表情だ。

 最後の場面が印象的だ。最初に登場した男が2メートル以上ある高い脚立の上にいるが、いつの間にか脚にアルミのはしごの脚を竹馬のように装着している。「死体」たちが運んできた大きな布をかぶり、頭を出した状態で、この「竹馬」で演技スペースを歩き出すのだ。「竹馬」があまりに高く、頭が天井に付いてしまうので、背中を丸め、最初は照明のバーを手でつかみながら歩く。それから手を放して数歩。そこで暗転する。

 当日パンフを読むと、これは死体を材料にしてフランケンシュタインの怪物が誕生するようすを描いた作品のようだ。なるほど、最後の「竹馬」の男は、大きさといい、背中を丸めた姿勢といい、フランケンシュタインの怪物をほうふつとさせる。この場面は素晴らしかった。あんなに長い竹馬を操れるのだという驚きがあり、それがフランケンシュタインの怪物になっているという表現としての面白さがあった。

 ただ、その場面を除くと、全体にちょっと間延びした印象もあった。フロアーを30分以上使い、4人のパフォーマーがいるのであれば、もう少し驚きを感じる瞬間があってもよかったかもしれない。それぞれの場面に意図や意味はあるだろうとは感じたが、伝わりやすいものではなかった。

 一瞬ごとに、もっと強度を持つ場面を作るにはどうしたらいいか。イメージの精度を上げることも一つのやり方だろうし、身体の芸を見せる方法もあるだろうし、ちょっとしたストーリー性を導入したり、言葉を駆使したりしてもよいだろう。こうでなければならない、ということはないので、30分間を使って観客に強い印象を与えるにはどうしたらよいか、考えてみるとよいと思う。いろいろなやり方があるはずだ。

(30日午後2時)

 

M.M.S.T「カラマーゾフの兄弟」

 

 ドストエフスキーによる有名な小説をモチーフにした作品。全体に静謐な雰囲気が漂い、心地よい緊張感のある舞台だった。

 出演者は4人。男性1人(劉毅)と女性3人。女性はいずれも修道僧のような黒い服をまとい、床に置かれた十字架を挟んで男性と向き合う。4人は真ん中で8の字状に交錯している輪状のヒモによって結ばれている。照明は薄暗い。

 女性のうちの1人(小川敦子)が歌い始める。クラシックの声楽の訓練をした人のようで、聞き覚えのあるバロック調の曲を歌う。ほんの2メートルほど先に歌い手がおり、美しい声で空気が振動するのを全身で感じることができた。大変ぜいたくな気分を味わった瞬間だった。

 「カラマーゾフの兄弟」は言うまでもなく長大な作品なので、舞台はそのうちの数場面を切り取ったものである。歌に続き、劉毅演じるスメルジャコフと豊田加奈子のイワンが対話を交わす。

 カラマーゾフ家の父親フョードルが殺され、犯人として長男ドミートリーが疑われているが、真犯人はフョードルの落とし子と噂される召使スメルジャコフである。次男イワンは事件の前にスメルジャコフと交わした意味ありげな会話から、スメルジャコフが犯人であることを悟っている。この舞台で取り上げられているのは、イワンがスメルジャコフに事件前の会話の真意をただす場面である。

 イワンはスメルジャコフを厳しく問い詰め、スメルジャコフは卑屈な調子で白い帽子をかぶったイワンの問いかけに答える。イワンを崇拝し、恐れてもいるようである。私が以前「カラマーゾフの兄弟」を読んだときの印象 では、父殺しの罪を犯したスメルジャコフはその行動ゆえに、イワンに対して心理的な 強みがあり、イワンを翻弄している印象を受けたが、この舞台でのスメルジャコフはどちらかというとひたすら気弱な感じだった。いずれにせよ、心の奥で父殺しの欲望を募らせていたイワンと、それを感じ取り実行に移してしまったスメルジャコフの奇妙な共犯関係を感じさせる緊迫感のある演技となっていた。

 それ以外の2人の女性は小川敦子がリーザ、坂東恭子が三男アリョーシャを演じ、比較的短い会話を交わした。

 最後にイワンが十字架を抱き「ありがとう」と言うのだが、イワンは無神論者なので、ごく一般的な見方としては、いささか疑問の残る場面だと思う。もちろん、どのような原作であろうと、舞台作品としては独立したもので、独自の解釈があってよい。ただ、「カラマーゾフの兄弟」のような、熱心に読まれている作品を題材にしたからには、演出に自分の解釈を盛り込むにあたって、それを観客に納得させるように示すことも必要だろう。手段としては当日パンフレットに書いてもよいだろうし、プロットの中にそれを示すくだりを挿入することもできる。

(30日午後2時)

 

ヘアピン倶楽部「SUNDAY PEOPLE」

 

 原案は岸田國士「紙風船」とされているが、当日パンフにもあるように、「紙風船」とはまったく違う話になっている。「紙風船」の名残は、舞台上のちゃぶ台に置かれた1つの紙風船だけである。

 まず舞台にはちゃぶ台を挟んで男女1人ずつが座っている。夫婦かと思うがそうではないらしい。水上(飯田祐司)は声のトーンが不自然に大きく、一本調子で、ずっと聞いていると焦燥感のようなものを感じる。向かい合う裕子(平山葉子)とは、昔の知り合いで、二人とも映画サークルのようなものに所属していたのではないかと思われる。かつて二人とも夢を追うような暮らしをしていて、裕子は大沢という、辛うじて業界の片隅で働いている男性と結婚している。大沢は今は留守である。別室に赤ん坊がいて、その声が時々響いてくる。

 一方水上はろくに働いていないようだ。水上は二年前に借りたDVDを返しに来ている。理由自体なんとなく不自然なものだし、何か裕子に期待するものがあるのかもしれない。しかし水上は不自然なトーンで話し続けるばかりで、真意を明らかにしない。降り出した雨をうつろな目で眺めたりしている。

 裕子はごく自然に水上をあしらいながら、時々「働けよ」などと乱暴な口調で話したりもする。自分なりに築き上げた暮らしを営む裕子と、浮草暮らしを続ける水上とではまるで勝負にならない。

 そこに若い男性藤沢(今井慶)がすいかを届けに来る。この藤沢もどこかぎこちない、鬱屈を抱え込んだ若者である。突然すいかを届けに来るなど、やはり裕子に思いがあるのかもしれない。水上と顔を見合わせてお互いに戸惑っている。裕子は二人の男性を見切っている感じで、全く自然な対応を乱さない。

 「紙風船」とあまり関係がないと書いたが、生活の中に腰を据えた女性のたくましさとふわふわした男性の情けなさの対比は、どこか「紙風船」と地続きのものを感じさせる。大正時代と比べて、 男が一層立場を失い、情けなくなっているのが今という時代だろう。

 面白い設定の会話劇だった。ただ、本来かなり精密な演技が必要になる脚本だと思うが、その割には俳優のセリフ回しや演技が若干単調で、面白さが十分伝わらないきらいがあった。おそらく経験がまだ足りないのだろう。向上の余地を感じさせた。

(31日午後2時)

 

 

NUDO「紙風船」

 

 岸田國士の「紙風船」を夫・菊川仁史、妻・佐藤和紅、千枝子・双山あずさで上演した。最初から三人舞台に出ており、背中合わせに三角形を作ってセリフを口にする。たとえば最初の夫が新聞を読む文句に挟むようにして、ほかの二人が様々な言葉を口にする。「米騒動」といった歴史上の言葉が多かった。

 中盤になると、有名な、二人が想像で鎌倉に旅行をする場面。ここでは三人が縦一列に並んで汽車のような形となり、効果音を交えつつ演じられる。これはとても楽しかった。そこから妻の「あなたには丁度いいっていうところがないのね」から夫婦が向かい合い、夫が結婚一年の真情を吐露する場面。ここでは感情表現が大げさになり、妻が絶叫することもあった。

 全体として見た場合に、この「紙風船」という戯曲に対して必ずしもクリアな一つの像を持っているとは思えなかった。場面ごとにセリフの内容に反応して演出しているのでは、と感じた。

 

 演出のよこたたかおは当日パンフに、「活動休止、あるいは狂気的な宣言文」と題する文章を掲載した。これは公式サイト(http://yokotatakao.blogspot.jp)からの転載で、活動の場が与えられない演劇人が少なくないことを訴えるために、とりあえず一年、「上演のストライキ」に入ることを宣言している。

 よこたの訴えるような状況があることは私にも理解できる。ただ、「上演のストライキ」に入ったところで、誰が連帯してくれるはずもない。もちろんよこたもそんなことは十分承知しているだろう。

 よこたのこれまでの詳しい経歴や現在どのような環境にあるかなどは知らないが、この宣言文から判断する限り、活動休止は正しい。創作活動から距離を置いてみた方がいいと感じる。ちょっと引いて色々なものを見るべき時期によこたは来ているのだろう。

 私は小劇場のレビューをしているウェブサイト「ワンダーランド」(http://www.wonderlands.jp)の編集長をしているが、そこによこたがこれまでに寄せた3本のレビューは内容の深い、いいものであった。よこたという人は知識もあるし、知性もある。努力もする。高い能力を持っている人である。

 だがこと創作活動においては、たまたまタイミングが合わなかったり、所を得なかったりというようなことはよくある。ずっと続けていくうちにゆきづまることも普通にある。成功する人は少ない。大成功する人はもっと少ない。基本的な能力の高さだけではどうにもならない世界なのである。

 よこたの能力をもってすれば、将来、何らかの形で成功はするだろう。だがそれが演劇の創作であるかどうかは分からない。演劇のレビューやプロデュースといった別の役割かもしれない。あるいはライターであったり、他分野の芸術だったりするのかもしれない。ひょっとしたら思いもよらない、ビジネスや市民運動かもしれない。日本にとどまらず、広い世界のどこかに場を移して活躍するかもしれない。

 年齢から言っても、能力から言っても、よこたには無限に近い可能性がある。本人が気づいていないだけである。だから、よこたがいま、演劇の創作から距離を置いて、その分時間と気持ちに余裕を持って、いろいろ考えたり、これまで見てこなかった世界を見て経験を積んだりすることを歓迎したい。新しい挑戦の第一歩になると思うからだ。

 もちろん、結果として、よこたがまた演劇の創作に戻ってくることもあるかもしれない。その時はパワーアップして、素晴らしいものを見せてくれるだろう。期待してやまない。

(31日午後2時)

 

劇団総合藝術会議「【J.A.Strindberg】の害について」

 

 チェーホフの「煙草の害について」の学者の講演という形式を借り、スウェーデンの劇作家ストリンドベリの生涯と主な作品について解説を加えながら、戯曲の一場面を4人の俳優が演じた。学者にゾ・トンジュン。戯曲を演じたのは藤達成、小野晃太郎、矢部祥太、佐藤英美。

 舞台面にはカラフルな布と風船が散らばっている。学者の講演はタブレット端末なども駆使しながら行われる。若きストリンドベリはシラーの「群盗」に感化され、主人公カールを演じたいと俳優を志望する。この願いはかなわなかったが、ストリンドベリが演劇界に入るきっかけになった、ということで、「群盗」の一場面が演じられる。群盗の一味を説得しようとする神父にカールが立ち向かう場面だ。

 演じる俳優はいずれもうまく、堂々としたセリフ回し。大変迫力のある演技だった。当時の若者を熱狂させたというロマンチックな義賊の世界を垣間見ることができた。照明を落とした暗めの舞台も効果的だった。

 その後学者の解説を交えながらストリンドベリの「死の舞踏」「幽霊ソナタ」の一部を上演。タイトルが物語るように、やや神秘主義的な、難解な内容であった。ここではろうそくの明かりが用いられ、雰囲気を盛り上げた。

 晩年のストリンドベリは精神病に悩まされ、この時期の作品には混乱した心理状態が反映されているという。「他人を愛することができなかった」人として、自分を慕う若い演出家とも喧嘩別れし、さびしい晩年を送った、というような内容が解説されていた。

 俳優がみなしっかりしているし、照明などの雰囲気づくりもうまく、とても洗練された印象を受けた。満足度が高い上演だった。

 ただ、昔の劇作家について学ぶという以上にどのような問題意識を持って今回の上演に臨んでいるのかはつかみにくかった。見応えもあり、見ている間は楽しくもあったが、娯楽というにはややペダンチックである。今の私たちにとって重要な劇作家としてストリンドベリが提示されている印象は受けず、むしろどちらかと言うと遠い存在と考えられているように感じた。今回の上演の関係者が、ストリンドベリを好きであるという印象さえ受けなかった。熱意というより、クールに距離をとってストリンドベリの生涯を俯瞰している視線を感じたのである。劇団側にとってさえそうならば、観客にとってはなおさらストリンドベリは遠くならざるを得ない。それならどうしてストリンドベリを取り上げたのだろうか。それが分からなかった。

(1日午後2時)

 

長堀博物館◎プロデュース5「ヘッダ・ガブラー」

 

 イプセンの名作を取り上げた。椅子を三つとその間に小さな卓を二つ、直線に置いた。基本的にすべての場面が その直線状の空間の中で演じられる。ヘッダ(鈴木瑛貴)は赤い服を着て真ん中の席に座る。ほかの登場人物はヘッダとの演技を経て右へ、あるいは左へと動いていくが、ヘッダはあまり移動しない。また、ほかの登場人物の服はモノトーンで、赤い服のヘッダがいやが上にも目立つ。空間構成や衣装も含めた演出の秀逸さが光る上演だった。

 原作を約半分の長さに縮めたが、プロットは十分原型をとどめている。美しく誇り高いが退屈で、嫉妬深くて邪悪だが人生を生き抜くために必要な勇気には欠けているヘッダの姿が見事に浮かび上がっていた。俳優たちも達者だった。ブラック判事を女性(小澤凌)が演じたのも面白かった。その分生々しさは減るわけだが、このようなクールな感じの演出には合っていた。

 ヘッダを演じた鈴木は、まさにヘッダを演じるにふさわしい、輝くような美しさを備えていた。しかしだからこそ、少しまともに演じすぎている感じもあった。発声がちょっと作り込んだ、いかにも舞台俳優っぽい感じなので、そうした印象が強まった。

 これは演出も含めての話だが、古典を古典としてまともに演じるだけでは現代性というものは出てこない。

 こういう大きな芝居をそのままに演じる、そしてそれを見る楽しみもあるとは思うが、何よりもこの小スペースである。新国立劇場で大地真央が演じるならそのスケール感を楽しむこともできるが、観客と2~3メートルの距離で役者が演じている。そのような至近距離をものともせず、現代日本の日常とはかけ離れた役柄や場面に没頭している俳優たちを見ていると、だんだん変な感じがしてくるのである。もちろん演技が変だとか言うことではなく、演技力もある立派な俳優たちが全力で演じており、それに動かされる自分もいるからこそ、そんな状況に対する違和感も心の中に巻き起こってくるということだ。

 現代日本のこの小スペースで「ヘッダ・ガブラー」を演じるとはどういうことなのか。この違和感は批評性の萌芽ということであり、そうした批評性をも織り込んだ演出・演技でなければ、現代性を持ちえない。様々なやり方があると思うが、観客とのコミュニケーションを意識するのもその一つだろうと思う。媚びる必要はないが、質の高さを保ったままで現代性を意識していくことは古典の上演においても重要である。

 最初にも書いたが、演出のクールさ、俳優の演技など、たいへん見応えのある舞台だった。だからこその苦言と受け止めてもらえたら幸いだ。

(1日午後2時)

 

雲の劇団雨蛙「財産没収」

 

 テネシー・ウィリアムズの「財産没収」は、線路の土手の上を歩いてく る少女と少年が出会って交わす会話で構成された二人芝居だ。

 線路を象徴するかのように、床には横長の三角形に白いテープが貼られている。三角形の中には小さなテーブルを挟んでパイプ椅子が二つ。二人の俳優(田仲ぽっぽ、山崎謙吾)はテープの上を歩いている。山崎演じるトムが田仲演じるウィリーに「あなた、だれ」と呼びかけるところから劇は始まる。ウィリーは手に小さな人形とバナナを持っている。

 ウィリーは両親がなく、姉アルヴァを亡くして天涯孤独、法的には没収された家屋に隠れるように住んでいる。そして、売春婦だったアルヴァの客を引き継いで生きていこうとしている。そんな境遇が、フラッシュを浴びたように照らし出される作品だ。

 今回の公演では、二人の俳優がテープの上をよろめくように歩いていく動作によって、ウィリーだけでなく、少年少女の生の危うさを表現していたように感じた。青い照明も効果的だった。また、冒頭のセリフ「あなた、だれ」を繰り返し用いることで、年齢こそウィリーよりも上だが、まだまだ子供時代の中にあるトムと、悲惨な人生の中に歩み出しているウィリーの対比、またトムから見た場合のウィリーの存在の謎と魅惑が感じ取れたと思う。短いが印象深い公演だった。

 雲の劇団雨蛙は昨年9月に活動を開始した、まだ若い団体で、島根を拠点に、県外でも公演をしているということだ。地方を拠点に演劇をするのはまだまだ大変だと思うが、これからもぜひ意欲的に活動していってほしい。

(9月3日19時)

 

総括

 

 板橋ビューネは今回が第1回ということで、仕方がないのかもしれないが、客席はややさびしかった。運営面でも、チケットを予約したはずが名前がなかったり、関係者らしき人たちが劇場に降りる階段のところで話し込んでいたりと、引っ掛かりを感じることがあった。客席はベンチで、上の段に座ると壁を背に座ることになる。いずれにしても椅子席に比べると腰に負担がかかり、嬉しい環境とは言えなかった。総じて、観客として歓迎されている感が乏しかった。

 内容的には玉石混交の印象を受けた。上演機会を求める団体にチャンスを与える趣旨なのだろうが、上演の印象がほとんど後に残らず、劇評を書きづらい作品もいくつかあった。「古典の上演」が参加条件ということだったが、古典と言っても戯曲ばかりでなく、小説をもとにしたものあり、劇作家について扱ったものあり、中には改変して全く関係のない作品になっているものもあった。それぞれの団体の古典への向き合い方がばらばらなのである。個々の公演はそれなりに面白かったが、イベントとしての統一性は感じられず、古典について思いを致す機会にはなりようもなかった。演劇祭は数多いので、特色を出す必要性は認めるが、名目だけの参加条件は必要なかったのではないか。

 ただ、ともかくも演劇祭をしようという心意気は買いたい。来年はより内容の充実したイベントになるよう期待したい。