「名古屋公演報告」

板橋ビューネ実行委員会

 

◆名古屋・七ツ寺共同スタジオへ

 東京公演(10月7-13日)が終わり、演劇祭スタッフは同月18、19日に上演のある七ツ寺共同スタジオ(名古屋)へ向かいました。

 上演団体(楽園王、雲の劇団雨蛙、妖帝デカダンス)が劇場入りしたのは本番当日のことでした。楽園王はキャスト・スタッフ総勢、関東からの参加。七ツ寺共同スタジオ二階の楽屋に宿泊します。雲の劇団雨蛙は島根の劇団。主宰の岡田さんは演出の他に、日本各地で芝居のプロデュースも行います。プロデューサーとして、気鋭の劇作家と共に毎回キャスト・スタッフのメンバーを変えて各地で作品を上演しています。今回は名古屋で俳優のオーディションを行い、名古屋のプロデュース・カンパニーのような形になりました。妖帝デカダンスは名古屋で活動する劇団。主宰の間宮さんの人柄の良さが作品作りにも現れています。

 板橋ビューネ2014の名古屋公演は、三者三様の劇団が一つの劇場で公演をする形になりました。


 上演は二日間、全部で三ステージ行われ、全ステージ、ほぼ満員御礼でした。中でも、学生のお客様に比較的たくさんご来場いただいたことが印象に残りました。三公演全てをご覧いただいたお客様や、普段は東京で楽園王の公演を観ている方で、名古屋まで足を運んでくださったお客様が何人もいらっしゃいました。千秋楽を迎えた後、楽園王と雲の劇団雨蛙は三々五々にそれぞれの拠点へと帰っていきました。楽日乾杯で労をねぎらい、交流する時間をゆっくりと取れないのが地方巡業の難しいところです。

 東京と名古屋のカンパニーが同時上演するというこの企画を名古屋及び近郊のお客さまにも楽しんでいただけたのであれば嬉しく思います。


◆楽園王『リア王』

 一番手は楽園王の『リア王』でした。

 シェイクスピア『リア王』を女性キャスト四人と男性キャスト二名で上演。リア王は子供を失って正気を保っていられない女性という設定になっています。冒頭、夫にも苦しみを理解してもらえず、女性は発狂。そこから芝居はリア王の世界へ入っていきます。三姉妹役の三人の巫女姿の俳優が登場。後ろ前に衣装を着て、世界が逆転していることを示しています。三姉妹が流行した歌謡曲を歌う場面が入り、子供を失った女性の独白が紡ぐリア王の精神世界に揺らぎと華やぎを与えます。

 昨年の板橋ビューネで楽園王が上演したのはイプセンの『ヘッダ・ガブラー』。『リア王』を家庭悲劇へと翻案するという意味では、崩壊した家族が両者に共通する演出のテーマになっていると考えることもできるでしょう。子供を失った妻の悲しみが日常世界と劇世界をつなぐという構造は、夢幻能の構造にも似ていると指摘できます。夫にとっては子供の喪失は気を狂わせるまでの悲しみをもたらさず、彼の「家庭」像に大きな影響を及ぼしてはいません。裏を返せば、妻にとっての子供の喪失は家族観の喪失以上の精神的な意味を持っているといえます。その意味で世俗的悲劇は夢の世界=死者の世界につながっていき、狂気によって二つの世界が橋渡しされているともいえます。

 楽園王特有の台詞回し・読点の配置も健在で、詩的でリズミックな発話が劇空間に異質な緊張感をもたらしました。


◆雲の劇団雨蛙『対話篇』

 二番手は雲の劇団雨蛙『対話篇』でした。

 プラトーン『ソークラテースの弁明』と『クリトン』を下敷きにしており、処刑が決定した前夜のクリトンとソークラテースが話をしている有名な場面が舞台です。

 俳優は舞台奥に一列で横に並び、それぞれが一歩ずつ舞台前に歩いてきては、直線を超えるとまた最初の位置に戻って再スタートします。数を数えながら歩いていくのですが、それが各自の年齢であることが途中で分かります。線は二十歳のところで引かれており、二十歳で区切られる「大人」へ至るまでの若者たちの葛藤を描いています。ソークラテースの死は、彼らにとっての死へと重なり、死を恐れる十代の、もしくは老いるという、見えない不安と戦う十代の心象を表しているようです。

 オーディションによって選ばれた十代から二十代の俳優たちは若さと強さを備え、死に立ち向かう勇敢なギリシアの若者を彷彿とさせます。真っ直ぐ客席の方を向いた力強い眼差しは、戦争に駆り出される若者のそれのようです。ここで喚起される古代ギリシアとの違いは、現代の若者が「社会に出る」ことに大きな恐れを抱き、「二十歳」が一つの社会に入るためのイニシエーションの年齢となっている点でしょう。安直ではあるものの、「二十歳」=「死」の等号は、社会が若者に過度な要求をしている実情を思い出させます。もし「死」をもってしか「二十歳」を迎えられないのだとすれば、私たちの「社会」はいかに未来の若者にとって過酷な環境なのでしょうか。ただし、それも一つの見方に過ぎず、ある意味では戦時中の特攻隊の神格化のような危うさもあるような気がします。

 プラトーン『国家』が引用され、「善とは何か」という問題を若年層の立場から捉えることで、未来の日本の姿を考えさせられる舞台となりました。「私は知らないということを知っている」という有名なソークラテースの言葉で舞台は締めくくられます。


◆妖帝デカダンス『女殺油地獄』

 トリを務めるのは妖帝デカダンス『女殺油地獄』でした。

 近松門左衛門の世界は、会社を経営する父親とその息子(徳兵衛)の確執という現代の設定に置き換えられ、家庭内暴力と父殺し、近親相姦をテーマに据えました。母親に対して愛のない父親に反感しつつも、父親と同じようにしか女性を愛せない息子の苦悩が描かれています。徳兵衛の愛する女性(お吉)は美術を学ぶ学生で、周囲に自分の絵が認められないと悩みながらも、彼と出会い、次第にお互い同士が惹かれあっていきます。しかし、生来遊び人の徳兵衛はお吉を愛するあまり殺してしまいます。金と愛に餓えた世話物の戯曲を現代的に翻案した作品となりました。

 劇の幕切れに劇作家(役)が出てきて「こんなお話、ちっとも面白くない。こりゃ上演不許可だ」と言って終わります。世話物は現代において不可能だという解釈とも取れるようですし、家庭内暴力のような家族間トラブルは同じ人間として見るに耐えないという解釈とも取れるようでした。

 劇場の受付では劇中に登場する絵画を描いた作家の作品の販売も行われ、妖帝デカダンスのお客様の活気で会場は熱を持ち、賑やかな上演となりました。


 これからも様々な地域で板橋ビューネが開催できることを願っています。改めまして、ご参加いただいた方々、ご来場いただいた方々に感謝の意を申し上げます。


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